猫ひろしとカンボジア
私はたまにはまじめなことも書こうと思う。
ダイヤモンドオンラインのコラム
加藤嘉一のだったらお前がやれ【第6回】 2012年5月7日 号の
「世界で勝負する、猫ひろし氏の「個の力」を見よ」
を見た感想と、自分の猫ひろし論争の考えを書いてみる。
この論評では1つの断り書きがある。
>猫さんの国籍取得の方法や五輪出場権取得の方法などについては、
>背景が定かではないので、踏み込んで議論をしない。
つまりこの論争を中心点である部分から目をそらし、無駄な議論を展開している。
まず、国籍変更は悪いことではない。私事だが私の実の姉もアメリカ国籍になった。
彼女はアメリカで暮らし、アメリカで仕事をし、アメリカ人と結婚し、子供も2人いる。
当然、子供の国籍もアメリカである。
こんな彼女ですらアメリカ国籍取得まで10年を要した。
これは同時多発テロなどで国籍取得が難しくなった背景もある。
>海外で暮らしていて感じるのは、国籍変更なんて当たり前だということだ。
この部分は、完全に同意である。
しかし、猫ひろしが問題にされてるのは居住実績もなければ居住意思もないことではないだろうか?
国籍の考え方には2つの考えがある。
1つは生地主義である。
これは、両親の国籍には関係なく、自国内で生まれた子は自国の国籍を取得する。
つまり生まれた場所の国がその子の国であるといういうものだ。
もう1つは、血統主義。
両親がその国の国籍を持つ国民であれば、
子は生まれた国に関係なく血統により両親の国籍を取得するというものである。
例外的に、国を変えなければいけない事情が生じたときに国籍は変えるのだ。
戦争や貧困で国を追われたものや、結婚や仕事で生活拠点をその国を移した場合など。
では猫ひろしはどうだろうか?
豊かな日本で育ち、カンボジアに住む意思もない。
カンボジアに血縁もなく、幼少の頃住んでいたわけでもない。
原理原則の考えに照らせば、何かがおかしいと思うだろう。
>倫理観から、猫さんのことを否定する意見には、違和感を禁じ得ない。
>「国籍をどこに置くか」というのは究極的には個人の問題だ。
>法治国家であれば、合法か違法であるかが、唯一の判断基準であるべきだ。
>倫理の問題に帰結するのは的を射ていない。
的外れなことを言っているのはあなた自身だと思う。
国籍変更は個人の意思であるという部分にも異論があるが、
それはいいとしよう。
この文章に至る過程で展開していた論理は、一般的な国籍変更である。
国籍を変えるという行為について、他人がとやかく言うなというのはその通りだ。
しかし、この論理で猫ひろしを弁護するのは無理がある。
彼がカンボジア国籍を取っただけなら、誰も見向きもしない出来事である。
問題になったのは、あくまで国籍取得から五輪出場の流れである。
つまり、全く争いのないところに、あたかも正しい主張をして全体が正しいかのように言うのは詭弁としか言いようがない。
ひとつひとつは問題がないことであっても、組み合わさることにより問題になることなんていくらでもある。
例えば酒を飲むことは悪いことではない、自動車に乗ることも悪いことではない。
酒を飲んで自動車に乗ればとたんに飲酒運転になる。
五輪出場のためだけに国籍変更をするということを罰する法律はない。
だが、国際陸連のルールでは認めないといっている。
このルールは倫理に基づいたルールである。
加藤嘉一の主張は全体的に悪くないだろう。自分の考えもあるが、
問題を矮小化していることと、全てに白黒付けようとしているところが気に入らない。
おかしいことを「おかしい!」と思う規範は法律ではない。
責任を問う規範が法律である。
行動の善悪を考える源泉は倫理であって良いのではないかと思う。
ダイヤモンドオンラインのコラム
加藤嘉一のだったらお前がやれ【第6回】 2012年5月7日 号の
「世界で勝負する、猫ひろし氏の「個の力」を見よ」
を見た感想と、自分の猫ひろし論争の考えを書いてみる。
この論評では1つの断り書きがある。
>猫さんの国籍取得の方法や五輪出場権取得の方法などについては、
>背景が定かではないので、踏み込んで議論をしない。
つまりこの論争を中心点である部分から目をそらし、無駄な議論を展開している。
まず、国籍変更は悪いことではない。私事だが私の実の姉もアメリカ国籍になった。
彼女はアメリカで暮らし、アメリカで仕事をし、アメリカ人と結婚し、子供も2人いる。
当然、子供の国籍もアメリカである。
こんな彼女ですらアメリカ国籍取得まで10年を要した。
これは同時多発テロなどで国籍取得が難しくなった背景もある。
>海外で暮らしていて感じるのは、国籍変更なんて当たり前だということだ。
この部分は、完全に同意である。
しかし、猫ひろしが問題にされてるのは居住実績もなければ居住意思もないことではないだろうか?
国籍の考え方には2つの考えがある。
1つは生地主義である。
これは、両親の国籍には関係なく、自国内で生まれた子は自国の国籍を取得する。
つまり生まれた場所の国がその子の国であるといういうものだ。
もう1つは、血統主義。
両親がその国の国籍を持つ国民であれば、
子は生まれた国に関係なく血統により両親の国籍を取得するというものである。
例外的に、国を変えなければいけない事情が生じたときに国籍は変えるのだ。
戦争や貧困で国を追われたものや、結婚や仕事で生活拠点をその国を移した場合など。
では猫ひろしはどうだろうか?
豊かな日本で育ち、カンボジアに住む意思もない。
カンボジアに血縁もなく、幼少の頃住んでいたわけでもない。
原理原則の考えに照らせば、何かがおかしいと思うだろう。
>倫理観から、猫さんのことを否定する意見には、違和感を禁じ得ない。
>「国籍をどこに置くか」というのは究極的には個人の問題だ。
>法治国家であれば、合法か違法であるかが、唯一の判断基準であるべきだ。
>倫理の問題に帰結するのは的を射ていない。
的外れなことを言っているのはあなた自身だと思う。
国籍変更は個人の意思であるという部分にも異論があるが、
それはいいとしよう。
この文章に至る過程で展開していた論理は、一般的な国籍変更である。
国籍を変えるという行為について、他人がとやかく言うなというのはその通りだ。
しかし、この論理で猫ひろしを弁護するのは無理がある。
彼がカンボジア国籍を取っただけなら、誰も見向きもしない出来事である。
問題になったのは、あくまで国籍取得から五輪出場の流れである。
つまり、全く争いのないところに、あたかも正しい主張をして全体が正しいかのように言うのは詭弁としか言いようがない。
ひとつひとつは問題がないことであっても、組み合わさることにより問題になることなんていくらでもある。
例えば酒を飲むことは悪いことではない、自動車に乗ることも悪いことではない。
酒を飲んで自動車に乗ればとたんに飲酒運転になる。
五輪出場のためだけに国籍変更をするということを罰する法律はない。
だが、国際陸連のルールでは認めないといっている。
このルールは倫理に基づいたルールである。
加藤嘉一の主張は全体的に悪くないだろう。自分の考えもあるが、
問題を矮小化していることと、全てに白黒付けようとしているところが気に入らない。
おかしいことを「おかしい!」と思う規範は法律ではない。
責任を問う規範が法律である。
行動の善悪を考える源泉は倫理であって良いのではないかと思う。






